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朝鮮史シリーズ第22回 現代朝鮮〜南北朝鮮の誕生〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、南北朝鮮の誕生について書きます。

 

1919年、日本統治時代の最中、旧朝鮮国王(韓国皇帝)高宗の死を日本による毒殺によるものとするデマに乗じ、朝鮮独立派が暴動を起こしますが、鎮圧されます。これを受けて朝鮮独立派は、中国・上海で大韓民国臨時政府(テハンミングクイムシジョンプ)という組織を創設します。大韓の名前は、構成員の一人の申錫雨(シンソクウ)が「日本に奪われた国号」として採用を提案したものです。そして強盗などで生計を立て、その後中華民国政府の支援を得て、1938年からは支給金をもらって活動費に回します。

韓国では、左派を中心として韓国建国1919年説(韓国政府は大韓民国臨時政府から続いている)という説があり、文在寅(ムンジェイン)などはこれを信奉しており、教育などで浸透を図っています。しかしこの大韓民国臨時政府は、中華民国を含めどこの国からも政府機関として認められたことはありません。

さて、1945年8月15日に日本が第二次世界大戦で負けたことにより、朝鮮が日本の支配から離脱します。早速朝鮮独立派の重鎮だった呂運亭(ヨウニョン)が、旧朝鮮総督府の支援を得て朝鮮建国準備委員会(チョソンゴングクジュンビウィウォンフェ)を創設します。そして9月に朝鮮人民共和国(チョソンインミンゴンファグク)に改組しますが、満州に侵攻した勢いで朝鮮に軍を駐留されたソ連と、ソ連を牽制したいアメリカが、共に国家承認を拒絶します。そして10月、北緯38度線を境として北半分はソビエト民政庁(1946年に北朝鮮人民委員会・プクチョソンインミンウィウォンフェに改組)が、南半分は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が統治することになります。

朝鮮では8月15日を光復節(クァンボクジョル・朝鮮独立記念日)としていますが、実際の独立は1895年4月17日(下関条約締結日。第19回参照)です。下関条約によって朝鮮は属国の地位を脱し、のちに日本に併合されつつも、朝鮮王家は日本の王族となります。しかし「光復節」は、朝鮮が米ソ両国に翻弄される始まりだったのです。

朝鮮は大韓民国臨時政府の中心であった呂運亭、金九(キムグ)、金奎植(キムギュシク)らの中道派と、彼らの仲間だった李承晩(イスンマン)率いる右派、そして満州、のちにソ連を拠点として反日共産ゲリラを率いていた金日成(キムイルソン)率いる左派に分裂します。

1948年8月13日、李承晩は中道派と左派を暗殺・追放し、南半分だけの一方的な選挙を実施し、大韓民国(テハンミングク)建国を宣言します。これに対抗して金日成も、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国チョソンミンチュチュウィインミンゴンファグク)建国を宣言します。

韓国建国1919年説では、1948年を「親日派による民族分断の年」としていますが、朝鮮分断の真犯人は李承晩だったのです。彼は自らと思想が異なる人々を殺し、追放し、異なる派閥との交渉を決裂させ、朝鮮分断の元凶となりました。

彼はヤクザ(反日義兵の末裔で、無籍だった。古今東西ヤクザの政治関与は普遍的だった。)を組織化し、以下の二つに分けます。

1 大韓民国青年同盟(テハンミングクチョンニョントンミョン):全斗漢(チョンドゥファン)が首領

2 西北青年会(ソプクチョンニョンフェ):脱北者が構成

そして彼らを政敵暗殺の道具として使います。そして当時一大政府批判地で、共産ゲリラも入り込んでいた済州島で、1948年に済州島四・三事件/済州四・三事件(チェジュサ・サムサゴン)を起こします。この事件は、西北青年会が済州島で6万人(人口の20%強)を虐殺したものです。済州島の人口は当時28万人でしたが、これらの迫害を恐れて人口の大半が流出し、3万人にまで減りました。現在の在日韓国・朝鮮人の大半は、この時亡命してきた済州島出身者です。

その他彼は、聞慶(ムンギョン)、麗水(ヨス)・順天(スンチョン)、居昌(コチャン)、江華島(カンファド)といった所でも、共産主義者とみなした人々を大量虐殺しています。

このような中で、金日成は武力による朝鮮統一を決意し、北緯38度線の南へ侵攻します。

 

次回は、朝鮮戦争と李承晩・金日成について書きます。

朝鮮史シリーズ第21回 日本の朝鮮統治

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、日本の朝鮮統治について書きます。

 

1910年、日本は韓国(旧朝鮮王朝)と条約を結び、韓国を併合します。1919年には高宗の死去を日本による毒殺であるというデマが流れ、これに乗じて朝鮮独立派が暴動を起こしますが、鎮圧されます。これによって朝鮮独立派は次々と国外逃亡し、日本は武断政治(警察と軍隊を統合するほど強硬で、そうしなければならないほど朝鮮の治安が悪かった)から文治政治(協力者養成を基としている)を基とするようになります。

日本の朝鮮統治は、実にとんでもなく、歴史に名を残す「暴政」だったわけです。

1 朝鮮の人口を2倍以上に増やしました。

2 24歳だった平均寿命を60歳に伸ばしました。

3 身分制を廃止し、人口の3割を占めていた奴隷(両班に逆らえば苦しめられながら殺されていた)を解放しました。

4 幼児売春や幼児売買を禁止しました。

5 家父長制を制限しました。

6 庶民や女性が名前を名乗ることを許しました。

7 度量衡を統一しました。

8 道ごとに異なっていた言語を統一して標準朝鮮語を創りました。

9 朝鮮王朝前期に創られたものの、両班が禁止させていた民族文字のハングルを普及させました。

10 小学校を5200校以上、師範学校や高等学校を1000校以上建てました。

11 識字率を4%から61%に引き上げました。

12 大学や病院を建て、呪術医療を禁止しました。

13 上下水道を作り、路上での排泄や河川の極度の汚染が当たり前だった状況を改善しました。

14 朝鮮人には第二次世界大戦終戦前の1年しか徴兵制を適用せず、内地(日本本土)への勤労動員だけで済ましていました。

15 志願兵の朝鮮人が戦死したら、日本人と同様に供養しました。

16 100キロだった鉄道を6000キロに延ばしました。

17 港や発電所北朝鮮の国章に書かれているダムは日本製)を作りました。

18 貨幣をもたらし、物々交換から市場経済へと転換させました。

19 貴族以外でも二階建ての家に住めるようにしました。

20 入浴の文化をもたらしました。

21 焼畑農業と乱伐で禿山となっていたところに6億本の木を植え、ため池(韓国では現存しているものの半分は日本製)もつくりました。

22 道路や橋を整備しました(それまでは川伝いに往来するだけで、川は渡し船かそのまま渡るか)。

23 近代農業をもたらして耕作地を2倍にし、収穫量も3倍に伸ばしました。

24 女性が乳を出させられていたのを禁止しました。

 

といった「暴虐」を働いたのです。

ベルギーに支配されていたコンゴ(旧ザイール)は、2000万人から3000万人いた人口が飢餓によって800万人に減りました。オランダに支配されていたインドネシアでは30万人が餓死しました。このように欧米列強が支配した植民地では、民は飢えが蔓延するほど徹底的に搾取されました。

日本はどうでしょう?産業の成長率は1920年代から1930年代に4.5%に成長しています。同時代のインドは朝鮮よりはるかに豊かで広大であったにもかかわらず、収奪と第一次産業への特化で1%にとどまりました。朝鮮の産業ごとの割合をまとめると

第一次産業:75%(1910年)→45%(1930年代後半)

第二次産業:7%(1910年)→22%(1930年代後半)

第三次産業:18%(1910年)→33%(1930年代後半)

です。

また日本がしたことは

人口:1300万人(1910年)→3000万人(1940年)

米生産高:2億8000万円(1910年)→7億1000万円(1940年)

工業生産:13億円(1910年)→86億円(1940年)

といった統計にも表れています。

またハングルも、日本の統治時代に定着しました。朝鮮で金玉均ら開化派が独立運動を展開している時、福沢諭吉はこれを支援する一方で、朝鮮独立を想定してハングルを広める計画を立てます。福沢諭吉の弟子で、慶應義塾の門下生の一人であり、1882年の壬午軍乱から1884年の甲申事変まで朝鮮政府の顧問を務めた井上角五郎が、これを実施します。

彼は1883年、漢城旬報(ハンソンスンポ)という朝鮮最初の新聞を発行します。これは全て漢文で、1年で廃刊になりましたが、1886年に発行された漢城周報(ハンソンジュポ)は漢文と国漢文(朝鮮語の訓読みを元とした独自の漢文で、井上の提案によって朝鮮人儒学者が創造したもの)とハングルによって書かれました。この新聞は創業2年で廃刊となり、発行部数は3000部にとどまりましたが、1896年にはハングルのみで書かれた初の新聞である独立新聞(ドクリプシンムン)が3年間発刊されました。

1894年、ハングルが実用化され、1912年には普通学校用諺文綴字法(ふつうがっこうようおんもんていじほう)によって表記法と文法が統一されます。1930年には諺文綴字法(おんもんていじほう)によって統一朝鮮語が体系化され、日本統治時代終了後の1947年には北朝鮮が、1948年には韓国がそれぞれハングル以外での朝鮮語表記を禁止します。

このように、日本は搾取の対象である植民地としてではなく、外地(内地・本土の延長)として朝鮮を統治したのです。そして日本統治時代によって、貴族以外は奴隷として扱われ、民族や国家としての意識も全くなく、極度の貧困と疫病と暴力に満ちた国は、近代国家となり、世界の国々の仲間入りが果たせるようになります。それを見ると、この言葉の真実がわかります。

 

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

朝鮮史シリーズ第20回 朝鮮王朝の末期と日清戦争〜韓国併合〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、韓国併合について書きます。

 

1895年、朝鮮は日本の力によって清から独立し、1897年には国号を大韓帝国と改めます。しかし皇帝となったのをいいことに高宗は税金を上げて庶民の不満を招きます。

そんな中で韓国(朝鮮)を取り込みつつあったロシアが、1904年〜1905年に日本に戦いを挑みますが、イギリス(当時世界最強国家)の支援を受けた日本の前に完敗します。日本は清、ロシアという二大国を韓国から締め出し、韓国を完全に掌握します。放っておくとどこになびくか分からないため、1904年には財政・外交の顧問に日本人を任命させ、1905年には韓国を保護国とします。

すると高宗は、1907年にハーグ密使事件を起こします。ハーグで開かれていた万国平和会議(国際会議)に3人の密使を送り、国内の混乱を全て独立の恩人である日本のせいにしたのです。これを韓国統監(1905年創設)伊藤博文は追求し、高宗は退位します。

日本はこれに激怒しますが、それ以上に韓国の親日派が激怒します。首相の李完用(リワンヨン)や一心会(イルシムフェ)といった親日派は、日本に韓国の併合を要請します。ロシアの南下政策への対策として、自らの都合で南の大国日本の関係を軋ませる皇帝より、日本に直接統治された方がありがたい、という考えです。

これに対し伊藤博文は、韓国が極度に貧しくて統治費用がかさむこと、韓国を終焉させる汚れ役となることを理由に「合併は甚だ厄介」として反対します。

これに激怒した安重根(アンジュングン)は、1909年、清のハルピン駅で伊藤博文を暗殺します。彼は韓国・北朝鮮では抗日の英雄とされていますが、実際は彼は天皇陛下を非常に尊敬しており、日本への併合に強く反対している伊藤博文を目障りと思ってこの犯行を行ったのです。死の間際に伊藤博文はこれを朝鮮人の犯行と知り、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と言い残しています。

これによって朝鮮民族派の活動が活発化します。韓国では重税にあえぐ庶民が、日本と戦う義兵(ウィビョン)を名乗る盗賊となって日本人らを襲うことが常態化しており、治安も民の暮らしも全く改善していませんでした。それで民の不満の標的となった李完用らは日本に併合を要請します。韓国はこのままでは滅びる、日本に併合されないと終わりだ、ということです。

これを受けて日本は、1910年、韓国併合に関する条約を韓国と結び、韓国の統治権を全て日本に譲ります。1392年以来522年間続いた朝鮮王朝(大韓帝国)は、ここに終焉します。

高宗の後継者である純宗(スンジョン)は、併合後李王(リワン)を名乗り、朝鮮の旧当主として王族を名乗ります。彼は軽い知的障害があり、子供を作れない体であったため、彼の弟の李垠(リウン)が跡を継ぎます。彼は日本軍軍人となり、1936年の二・二六事件などで活躍します。彼の妻は梨本宮方子(まさこ)親王で、韓国名は李方子(リバンジャ)であり、最期まで夫に寄り添い、夫の死後も韓国に住み、そして韓国で亡くなりました。李垠夫婦の長男の李晋(リチン)は生まれて約9ヶ月で病死していますが、これに朝鮮独立派(朝鮮王族が日本に優遇されているのが面白くない)が関わったのではないかという疑いがありますが、そんな中でも支え合い、助け合い続けた夫婦だったのです。

高宗は李太王(リテワン)を名乗ります。純宗の孫である李金禺(金と禺で一つの字)(リウ)は日本軍人となり、1945年に被爆死した人物として知られています。李垠の次男の李玖(リグ)は李王世子(リワンセジャ)、純宗の弟で李垠の兄である李土岡(土と岡で一つの字)(リガン)は李公(リゴン)を名乗り、その子の李鍵(リコン)は日本に帰化した日本軍人の桃山虔一(ももやまけんいち)として知られています。また高宗の娘の徳恵翁主(トッケオンジュ)は、東京の女子中学院(当時の中等教育)で学び、対馬藩主を務めた宗氏の当主の宗武志(そうたけゆき)と結婚(1931年〜1955年)しています。

このように日本は、韓国の親日派の要請で韓国を併合し、旧王族(皇族)を王族として迎え入れました。朝鮮独立後に日本国憲法が王公族の廃止を求めた後、北朝鮮共産主義を標榜して君主制を全否定し、韓国は初代大統領の李承晩(イスンマン)が旧朝鮮王族(韓国皇族)の入国を拒否して旧朝鮮王族(韓国皇族)はその地位を失ったのです。李承晩失脚後、朴正煕(パクチョンヒ)が旧朝鮮王族(韓国皇族)の帰国を認めますが、地位の回復は認められず、今に至っています。

朝鮮はロシアを巻き込みつつ、日本の力によって清から独立し、そして日本の一部となりました。朝鮮独立までの過程、そしてその後の日本の朝鮮統治が現在の朝鮮の基礎となった(次回参照)ことを考えると、全ては主の備えありと思わされるのです。

 

主の山の上には備えがある。(創世記22:14)

朝鮮史シリーズ第19回 朝鮮王朝の末期と日清戦争〜日清戦争と独立朝鮮〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、日清戦争と独立朝鮮について書いていきます。

 

1884年閔妃は甲申事変で清の力を借りて朝鮮の開化派を追放し、粛清します。そのように改革が全く進まない中、民衆の極度の貧困は改善せず、不満が増大します。そんな中で、東学(トンハク)という新興宗教が勢力を拡大します。東学は1860年崔済愚(チェジェウ)によって創始された宗教で、儒教・仏教・朝鮮の民間宗教の三つが融合され、真心を込めて呪文を唱え、そして修養して霊符を飲めば天と人が一体となり、現世において神仙となれる、というものです。そしてキリスト教を西洋の宗教と位置付けて西学(ソハク)と呼び、それに対する民族宗教ということで東学という名前になりました。

彼らは元々暴力を否定しますが、政府の暴政と弾圧に耐えかね、1894年に全琫準(チョンボンジュン)を首領として反乱を起こします。甲午農民戦争(東学農民運動・トンハクノンミヌンドン)です。この反乱は全州(チョンジュ)一帯を席巻し、朝鮮は反乱の規模を見かねて清に援軍を要請します。日本と清は甲申事変直後に天津条約を結び、日本と清それぞれ朝鮮出兵時に相手に通告することが約束されていたので、日本も朝鮮に出兵します。日本軍と清軍は朝鮮で対峙します。

日本は清と共同で朝鮮の改革を呼びかけましたが、清は日本の朝鮮からの撤兵を要求してこの提案を拒否したため、日本はイギリス(当時世界一の大国)からの支持を取り付けて朝鮮王宮を占拠し、高宗の身柄を確保して清軍追放の勅命を引き出します。そして日本軍は近代化を徹底していたのもあって、清軍を次々と破り、朝鮮駐屯中の清軍の司令官である葉志超を平壌で降伏させ、そして清の自慢の北洋艦隊(旧式軍隊で、その増強費を西太后が自らの趣味に使ってしまった)を壊滅させ、台湾、遼東半島まで進出します。清が朝鮮から過酷な収奪を重ねていたことと、満州人の王朝である清に対する中国人の不満が高まっていたこと、清が近代化を拒否して衰退していたことが相まって、「眠れる獅子」と呼ばれて欧米列強から警戒されていた清はあっけなく敗北してしまいます。

1895年4月17日、日本は清と下関条約を結び、2億両の賠償金の支払いや台湾・遼東半島澎湖諸島の割譲、沙市(武漢の南方)、重慶杭州、蘇州(いずれも長江沿岸の要所)の開港、日本への最恵国待遇、そして朝鮮の独立を認めさせます。1300年続いた中華思想に基づく冊封体制はここに終焉します。

この下関条約、一番いい目を見たのは朝鮮ですが、面白いことに台湾での方が注目されています。朝鮮では日本からの独立後に両班の子孫らが実権を握ったために徹底的な反日教育が行われ、「日本による朝鮮植民地支配の始まり」とされて無視されていますが、台湾では「清の暴政からの解放」とされて記念されています。朝鮮から徹底的に収奪するわ、台湾は領有を宣言しながら「化外の地」(中国の統治が及ばない地域)として切り捨てて暴力・疫病・貧困に満ちている状態を放置するわで、どちらも清に散々な目に遭わされていた地域ですが、先住民の縄張り争いが歴史で、日本によって初めて統一された台湾と、中国かぶれの収奪貴族の両班による暴政が歴史の朝鮮で、対日感情が全く異なるものになったのです。

しかし閔妃は、自らの権勢を維持するために、せっかく日本が清から独立させたのに今度はロシアに接近します。そのため閔妃の政敵である大院君は日本に接近し、閔妃を共通の敵とする訓練隊・親衛隊・警務使を取り込みます。そして下関条約が結ばれたその年に、訓練隊長の禹範善(ウボムソン)が閔妃を殺します。朝鮮ではこれは、日本の仕業とされていますが、純宗(高宗と閔妃の子で、最後の君主)の証言によると犯人は訓練隊で、また駐朝鮮日本公使の三浦梧楼の加担は事実ですが、彼は当時ロシアが日本を狙っていたことを考慮して独断で加担したまでであって、日本が閔妃に手を下したというのは事実とは違うわけです。

そして大院君は閔妃を殺した後、政界から引退します。

1897年、朝鮮は国号を大韓帝国(テハンチェグク)と改め、君主の呼称は国王殿下(グクワンチョンハ)改め皇帝陛下(ファンジェピェガ)と変更されます。韓は朝鮮南部の古称と、国王を意味する雅号がかけ合わさった単語です。

そして中国の使節を迎える場所だった迎恩門(ヨンウンムン)を取り壊し、その跡地に独立門(ドクリプムン)が建てられます。韓国では「日本からの独立記念」とされていますが、実際は中国からの独立記念だったのです。

しかし高宗は皇帝となったのをいいことに増税し、反乱の原因を作ります。

 

次回は、韓国併合について書きます。

朝鮮史シリーズ第18回 朝鮮王朝の末期と日清戦争〜朝鮮王朝の開国と日清戦争〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、朝鮮王朝の開国と日清戦争に至るまでの流れについて書きます。

 

1873年閔妃(ミンピ)が義父の大院君(テウォングン)を追放して実権を握り、開化派を重用していきます。そんな中で1875年、江華島(カンファド)事件が発生します。日本が漢江(ハンガン)河口の江華島に近づいて海の測量を実施し、鎖国政策を堅持していた朝鮮の軍が砲撃したのです。朝鮮が日本との交易交渉を、日本が蒸気船に乗って洋装で来ているのは中華秩序に反する、という言いがかりをつけて先延ばしにし続けていたために、日本側がしびれを切らして事件です。そして1876年、外交使節の相互派遣や仁川(インチョン)、釜山(プサン)、元山(ウォンサン)を開港し、そこの日本領事に領事裁判権を与える、という内容の日朝修好条規(朝日修好条約・チョイルスホジョヤク)を結びます。

こうして、朝鮮王朝の鎖国政策は終わります。

その後朝鮮では、西洋の影響を受けた日本式の訓練を受けた軍隊である新軍(シングン)が誕生します。閔妃は彼らだけまともな待遇を与え、もともといた清式の軍隊である旧軍(ググン)を無視します。ただでさえ貧しいにもかかわらずその食い扶持さえも絶たれ、飢えと苦しみに喘ぐ旧軍は、閔妃を恨む大院君や保守派と連携し、1882年に壬午軍乱(イムホグンラン)が発生します。大院君は閔升鎬を殺し、閔妃は侍女の一人を身代わりにして逃げます。そして大院君は実権を取り戻します。

しかし閔妃は清に助けを求め、清は大院君を捉えて天津に連行されます。彼女はその感謝に中朝商民水陸貿易章程(チュンチョサンミンスリュクムヨクチャンチョン)を結びます。清が朝鮮の宗主国の地位を保つだけでなく、朝鮮の通商も支配するというものです。また彼女は日本とも済物浦条約(チェムルポジョヤク)を締結し、壬午軍乱によって焼失した日本公使館などの対日賠償補償、日本軍の駐屯や日本の権益拡大を認めます。

このように朝鮮は、バランス外交を超えて二枚舌外交と言えるやり方で自らの地位を保ちます。しかし残念なことにそれは民のためではなく、権力者のご都合主義のためでしかなかったのです。国王の高宗(コジョン)は酒と女性に溺れて全く政治を顧みず、王妃の閔妃は浪費家で短気で、国王の妾である張氏(チャンシ)を脅す、清の西太后と似て晩年を自らの贅沢で国家財政を食いつぶす嫉妬深い人物で、家臣たちは権力争いに明け暮れるという悲惨な状態でした。家臣たちは保守派(勢道政治・属清鎖国)、改革派(大院君、開化・鎖国)、事大党(閔妃、属清・開化)、独立党(金玉均親日・開化)の四派に分かれて、激しい抗争を繰り広げていました。

このような状況を見かねて、金玉均(キムオッキュン)ら開化派は朝鮮独立のための活動を開始します。金玉均は机上の空論を吐く面がありましたが、議論攻めの秀才で、賢い人物でした。そんな彼が、賢くも無謀な計画を立て、実行します。彼は1883年〜1885年のフランスのヴェトナム(当時清の属国)侵攻に注目し(清仏戦争)、朝鮮に構っている暇はないと見て、甲申政変(カプシンジョンビョン)を起こし、事大党を追放します。しかし仲間同士の連絡不足とそれを考慮しない金玉均の無茶振りのせいで、袁世凱率いる清軍(1300人)に完敗します。彼は26歳で清軍を率い、横暴な面がありつつも優秀な人物で、甲申事変を支援していた日本軍(150人)も打ち破ってしまいます。

甲申事変は失敗し、金玉均は日本に逃げ、朝鮮独立運動の支持者でもある福沢諭吉慶應義塾に滞在します。そして上海に行って再起を期すも、朝鮮王朝が差し向けた暗殺者に殺されてしまいます。彼の遺体は朝鮮に持ち帰られ、凌遅刑(体を徐々に切り刻んで殺す刑罰)に処せられます。

見かねた福沢諭吉は、暴力団さながらの権力争いが常態化し、近代化を拒絶し続ける朝鮮を「妖魔悪鬼の地獄国」と評価し、その朝鮮とその背後にいる中国を「心において絶縁すべし(価値観を共有するな)」と主張する脱亜論を書き、アジア諸国の連帯による欧米列強の侵略撃退(大アジア主義)から、欧米列強と連携した日本独自の近代化へと主張を転換します。

こうして日本と清は、朝鮮を巡って一触即発の状態にまで対立していきます。

 

次回は、日清戦争と独立朝鮮について書きます。

朝鮮史シリーズ第17回 朝鮮王朝の末期と日清戦争〜朝鮮王朝の開国への道〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、朝鮮王朝の開国するまでの経緯について書きます。

 

1636年、朝鮮は清の属国となって徹底的に搾取されていましたが、日本ともそれなりの交流はあり、1607年から1811年には計12回、朝鮮通信使が日本に派遣されています。15世紀前半や16世紀末にもありましたが、江戸時代に最も活発に派遣されます。彼らは道中で、朝鮮で庶民にするのと同様に略奪、暴行を働いたり、町を汚すなどの不祥事を起こしてもいますが、外国との交易を厳しく制限(鎖国)していた日本に中国文化をもたらす手助けもし、朝鮮通信使がなくなってからも民間では交流が終始続きました。

1840年〜1842年、阿片戦争が発生し、清がイギリスの侵攻の前に大敗します。それによって清が衰退し、朝鮮国内でも動揺が走っている中で、1864年、若年の国王高宗(コジョン)の父親大院君(テウォングン)が実権を握ります。彼は若い時は非常な遊び人でしたが、それを生かして支持派を獲得し、国政の実権を握るまでになります。そして勢道政治(セドチョンジ、王に取り入った貴族たちが実権を握る政治)を行なっていた安東金氏(アンドンキムシ)や老論派(ノロンパ、旧西人派)を抑え、北人(プクイン)や南人(ナムイン)(共に旧東人派)を優遇しました。そして政治と軍事の一体化を図り、多くの武臣(ムシン)を採用しました。そして文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)で焼かれて以来再建されていない景福宮キョンボックン)を再建し、国力発揚を図りました。

ところで、朝鮮では党派争いが非常に激しく、時には殺し合いに発展することもありました。外部から隔絶された最貧国であったのと、朝鮮王朝の情報統制が非常に厳しかったのもあって実態は余りわかっていませんが、党派争いが凄まじく、政変が常態化していたことはまぎれも無い事実です。例を挙げると、東人派は、文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)ころに南人派と北人派に分裂し、そして日本との戦争で国土が荒れ果てたのもあって北人派が中立外交を掲げて光海君を支えることで命脈を保ったものの、仁祖反正(1623年)に光海君もろとも追放された、という具合です。

そんな中、国内の結束を強め、外国勢力の干渉を排除するために、1864年1871年には儒林(ユリム)という儒教学校を潰しに行きます。儒林は儒教学校であると同時に、明や清の出先機関として私兵も掲げ、両班以上に朝鮮庶民から搾取を重ねていた、いわば朝鮮王朝版暴力団孔子学院です。孔子学院は中国(共産中国)の出先機関として他国の大学の中に置かれたもので、お金をばらまいて協力するそぶりをして他国の重要な情報を抜き取る機関です。大院君は清の衰退に乗じ、国内の重要な47校を除く全ての儒林を潰します。これを通し彼は、儒林の横暴に苦しんでいた民の支持を集めました。

そして戸布制(ホポチェ)を導入して両班の土地独占を禁止し、課税もするなどの改革を進める一方、衛正斥邪(ウェジョンチョクサ)と言って国学朱子学を擁護し、その他の学問・宗教を徹底的に排斥する政策を行ったり、国内各地に「欧米列強が侵犯しているのに戦わずして和睦するのは売国だ」と刻んだ、斥和碑(チョクファビ)と呼ばれる碑文を建立するなどの保守的な政策も実施しました。大院君は、身分より実力を重視する実力主義者と、鎖国を堅持する保守主義者の二つの顔を持っていたのです。

彼は勢道政治という両班による政治の私物化を一掃したものの、彼自身がまた独裁を行ったため、事実上勢道政治が存続することとなります。高宗の妃であり、彼に反発した保守派を率い、朝鮮の自主政策推進を好ましく思っていなかった清の支援を受けた閔妃(ミンピ)は、1873年に大院君を追放し、実権を握ります。

彼女は若い時に朝鮮王朝最大の私有地を持つ閔氏(中国系)の娘として生まれ、清との繋がりが深く、若い時は宮廷で努力し、勤勉で従順でしたが、政治の実権を握った頃から清のつながりや権力をものにする浪費家となった人物です。ただし清とのつながりや自身の能力を生かし、滅びゆく朝鮮王朝を支えた人物でもあります。

彼女は大院君を追放した後、戸布制を廃止し、儒林を復活させるなどの反動政策を実施する一方で、閔升鎬(ミンギュホ)や朴趾源(パクシウォン)、金弘集(キムホンジプ)などの開化派を登用していきます。

そんな中で、朝鮮はいよいよ開国します。

 

次回は、朝鮮王朝の開国から日清戦争に至るまでの流れを書きます。

朝鮮史シリーズ第16回 朝鮮と清

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、朝鮮王朝と清の関わりについて見ていきます。

 

豊臣秀吉の死によって日本軍が朝鮮から撤退して文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)が終わった後、朝鮮は明に「再造之恩」への感謝を表明します。明軍のおかげで朝鮮が救われたのだということです。明軍の朝鮮での度重なる暴虐にも関わらず、朝鮮は明への隷属をどこまでも続けていました。

その明も、日本との戦い以外に寧夏(元ことモンゴルの支援も入った)、播州(現在の中国貴州省遵義市)での大規模な反乱(万暦の三征)に悩まされ、一気に滅亡へと向かいます。

そして1616年満州人(オランカイ)を率いて日本軍の撃退に成功して力をつけ、明から独立して後金を建てたヌルハチが、1619年に明・朝鮮軍(明軍12万、朝鮮軍1万3000、合計13万3000)に完勝します。サルフの戦いです。この時の明軍の総司令官は楊鎬で、蔚山城の戦いで明軍を率いた人物でもあります。そして数で優っているので油断していましたが、後金軍の奇襲戦術と明・朝鮮軍の士気のなさと内部分裂のために、ヌルハチ率いる後金軍(6万)に完敗します。

この戦いは朝鮮にも大きな衝撃を与えます。彼らが宗主国として仰いでいた明(中国)が、蛮族と見下している後金(満州、オランカイ)に完敗したからです。そして朝鮮は、光海君(クァンヘグン)率いる大北派(テブクパ)(中立)と仁穆大妃(インモクテビ)が率いる西人派(ソンインパ)(属明)に分裂します。そして1623年、仁祖反正(インジョパンジョン)によって光海君は追放され、綾陽君(ヌンヤングン)が仁祖(インジョ)として王位に就きます。

1626年、明は海岸部除く満州を全て失います。しかしそれでもなお彼は後金を敵視したため、1627年、後金は朝鮮に侵攻し、後金を兄、朝鮮を弟とする盟約を結びます。丁卯胡乱(ジョンモホラン)です。そして朝鮮は後に、後金の国境にある義州(ウィジュ)と会寧(ホエリョン)に市場を開き、国境地帯の野人女直を後金に返すなども行なっています。

1635年、ヌルハチの後継者であるホンタイジは元(モンゴル)を滅ぼし、ハン位を譲り受け、皇帝となることを宣言し、国号を後金から清に改めます。そして彼はモンゴル人に支配されていた時の呼称である女真の使用を禁じ、彼の父が定めた満州(マンジュ)を正式に民族名とします。満州とは、曼珠菩薩の曼珠からきており、力ではなく仏法で中国・満州・モンゴルを統括した大帝国建設の夢を表した名称です。

彼は皇帝となったことを受け、未だ属明派が実権を握っている朝鮮に対し、臣従を要求します。しかし朝鮮は、清を蛮族(オランカイ)と侮辱してこれを拒絶します。そのためホンタイジは、12万8000人の軍を率いて朝鮮を攻撃し、開戦後5日で漢城(ハンソン)に到達します。仁祖は江華島(カンファド)へ逃亡を試みますが清軍の包囲を破れず、南漢山城(ナムハンサンソン)に40日間籠城しますが、兵糧が尽き、降伏します。丙子胡乱(ピョンジャホラン)です。

彼は漢江南岸の三田渡(サムチョンド)に布陣しているホンタイジのもとへ出向き、三跪九叩頭の礼という、三回跪いて各々三回ずつ頭を地面に擦りつけるという清皇帝への最敬礼を強制され、許しを請います。

そして三田渡の盟約を結ばされ、清の属国となり、明と断交すること、朝鮮王子と大臣の子または弟を人質として送ること、そして黄金100両と白銀1000両、また朝鮮人美女や牛、馬、豚など20余種を毎年3000ずつ上納することを強いられます。

そして大清皇帝功徳碑(テチョンファンジェコンドクピ)を建立させられ、表左にモンゴル語、表右に満州語、裏に中国語でホンタイジへの反省文を書かされます。偉大なる清への愚かな反逆を偉大な清国皇帝(ホンタイジ)は許してくださり、朝鮮国王はそれに永遠に感謝して臣下となることを誓った、という内容です。

この大清皇帝功徳碑、韓国の一部保守派に何度も倒されていますが、現在は韓国の指定史跡となっています。

その後清は、1644年に明が農民李自成の反乱によって滅び、李自成が順の建国を宣言した時に、明の旧将たちの依頼を受けて順を滅ぼし、中国・モンゴル・満州を包括する帝国の地位を確立させています。

朝鮮はこの後、中華(中国)は蛮族(満州人・オランカイ)の手に落ちたものの、我々小中華(朝鮮)は国家を失わずに済んでいる、だから我々小中華(朝鮮)こそが正統な中華文明の後継者だ、という小中華思想を掲げ、そして1674年には大明天地(テミョンチョンジ)を標語にしています。明(中華)を仰いで清(満州・オランカイ)の支配を拒絶し、表向きは清に従いつつも明の正統性を受け継いでいく、というものです。しかし清の相手にさえならない極貧国の朝鮮は、清の属国として徹底的に収奪される、周囲から隔絶された秘境として19世紀まで存続します。

 

悲惨な歴史であっても朝鮮は朝鮮、中国は中国、満州満州です。世界に存在しているというのが大切なので、悲惨な歴史を隠すのではなく、それを見つつもそれ以上に未来を見ていく、というのが求められると思います。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)