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朝鮮史シリーズ第23回 現代朝鮮〜朝鮮戦争と李承晩・金日成〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、朝鮮戦争と李承晩・金日成について書きます。

 

1950年6月25日、北朝鮮北緯38度線を超え、 韓国の領内へ侵攻します。朝鮮戦争の開戦です。そして3日で首都のソウルへ到達します。

韓国国防長官の申性模(シンソンモ)は、韓国優勢という嘘の報告をします。それもあってソウルに北朝鮮軍が到達するまで情報の伝達が遅れ、ソウル市民が状況を把握した時には北朝鮮軍がソウルに入り始めていました。李承晩は水原(スウォン)に逃げ、安心しきっていたソウル市民が殺到した漢江人道橋(ハンガンインドギョ)を爆破します。これによって800人が死に、ソウルに取り残された韓国軍は壊滅します。セウォル号事件さながらのお粗末な逃避行です。しかし鉄橋の爆破に失敗したため、橋爆破の目的であった北朝鮮軍南下を許してしまいます。

ところでこのソウル、北朝鮮に非常に近いという理由で遷都計画が何回か出ており、候補地として世宗特別自治市(セジョントゥクピョルチャジシ)などが挙げられましたが、北朝鮮への屈服とした保守派の反対にあって頓挫します。

李承晩は水原に逃げた後、大田(テジョン)、大邱(テグ)、釜山(プサン)へと逃げ、後に続いて在韓米軍も敗走し、韓国政府は釜山へと追い詰められ、日本の山口県への避難計画も出ます。

しかし浦項(ポハン)で金錫源(キムシクウォン)、大邱で白善燁(ペクソンヨプ)が活躍し、北朝鮮の南下は阻止され、そして国連軍が派遣され(ソ連中華民国が国連代表であることを原因に会議を欠席していた)、仁川(インチョン)に上陸します。こうして北朝鮮北緯38度線の北へ撤退します。

この年の1月、北朝鮮の支援者のソヴィエト連邦ソ連)は、共産中国(1949年建国)と中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、ソ連が東欧の、共産中国が東亜の共産化を担当します。そして金日成の朝鮮武力統一支援要請を受けた共産中国がソ連に相談したところ、ソ連は共産中国の参戦を条件としてこれを承認します。

共産中国は北朝鮮の北端の鴨緑江(アムノッカン)に軍隊を配備し、38度線以北に進攻しないように警告します。しかし李承晩は北朝鮮を武力で滅ぼすことを目指し、アメリカもこれを支援し、38度線の北へと進攻します。しかし彭徳懐率いる中国人民志願軍(義勇軍を名乗る共産中国軍)の反撃に遭い、38度線まで後退します。アメリカ史上最大の敗走と言われるほどの大敗走だったそうです。

米軍司令官であり、国連軍司令官でもあるマッカーサーはこれに対し、台湾に籠る中華民国軍の大陸反攻と、満州(共産中国領)と北朝鮮への原爆約50発投下を提案しますが、米大統領トルーマンに却下され、彼は更迭されます。そして1953年、ソ連最高指導者のスターリンの死去に伴ってソ連が対西側融和姿勢を見せたため、7月27日、板門店(パンムンジョム)で休戦協定が結ばれます。北朝鮮はソウル北西の要所開城(ケソン)を獲得して事実上の勝利を収め、北進統一に失敗した韓国はアメリカに署名を丸投げし、朝鮮戦争は休戦しました。

この戦争が始まる前年、李承晩は政敵とした人々を国民保導連盟(グクミンポドヨンメン)に組織し、朝鮮戦争が始まった時に彼らを一斉に処刑しています。刑死者は114万人です。他の虐殺事件(第22回参照)同様、自らの失態を国民のせいにし、監視国家を作り上げて全てをごまかすことで、自らの権力維持を図ったわけです。

また朝鮮戦争で日本が参戦しようとする計画を一蹴して戦争を泥沼化させた上に、1952年に戦線が膠着すると、李承晩ラインを設定して竹島(1618年に日本人が進出し始めて1905年に正式に日本領となり、1951年のラスク書簡で、アメリカが日本領と追認していた。韓国では日本が1905年に日韓協約で不法に奪ったものとしている)を奪っています。そして1965年の日韓基本条約締結までに327隻を拿捕し、3911人を抑留し、牢獄の環境の劣悪さが原因で8人が死んでいます。

このように、失政、疑い合い、人治主義、責任転嫁が蔓延し、国内は疲弊したため、1960年の四月革命で李承晩は追放され、ハワイ(アメリカ)へと亡命して5年後に死にます。

韓国はその後、学生運動が活発化し、10万人が参加します。当時は北朝鮮の方が国力が上で、学生運動を利用した赤化統一(北朝鮮による統一)が実現しかねない状況なのに、政府はこれを統制できず、南北学生会談案まで出ます。その標語は「行こう北へ、来たれ南へ、会おう板門店で」でした。

これによって社会は混乱しますが、1961年5月16日に朴正煕(パクチョンヒ)が5・16軍事クーデター(5・16グンサクーデター)を起こします。彼は日本軍人高木正雄として活躍した経歴があり、諜報のプロ金鍾泌(キムジョンピル)と共に日本に対する理解が深い人物でした。そんな彼は、韓国中央情報部(KCIA)を創設し、1963年には共和党(ゴンファタン)を創設して大統領にも就任し、反共独裁体制を固めます。

一方北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)は、1948年にソ連の支援を受けて建国され、5つの党派が力を持っていました。

満州派(マンジュパ):代表人物は金日成(キムイルソン)。甲山派と共に東北抗日連軍(トンプクハンイルリョングン)を構成。

甲山派(ガプサンパ):代表人物は朴金喆(パククムチョル)。満州派と共に東北抗日連軍を構成。

南労党派(ナムロドンパ):代表人物は朴憲永(パクホニョン)。韓国建国ごろまで朝鮮南部で共産主義活動を展開した南朝鮮労働党(ナムチョソンロドンタン)の流れを組む。

延安派(ヨナンパ):代表人物は金枓奉(キムドゥボン)。中国共産党に参加していた朝鮮人たち。

ソ連派(ソリョンパ):代表人物は許哥誼(ホガイ)。ソ連朝鮮人たち。

1953年の朝鮮戦争停戦後、金日成は赤化統一失敗の責任を問う形で、南労党派を粛清します。そして1956年8月には、中ソ対立が始まった影響で、朝鮮の独立を損なうとされた延安派とソ連派が粛清されます。そして1956年12月には大規模な共産主義的工業運動である千里馬運動(チョルリマウンドン)が提唱され、1957年から1961年には5カ年人民経済計画(オゲニョンインミンキョンジェキェフェク)が実施され、北朝鮮は工業国家として成長します。この北朝鮮の成長を導いた甲山派も、1960年代には資本主義を容認する姿勢を見せたために、1967年に粛清されます。

1962年、北朝鮮キューバ危機についてソ連を修正主義(資本主義への妥協)と非難した共産中国に同調しますが、石油問題などでソ連とも連携し、社会主義を基とした中ソ双方との緊密な関係を確立させます。

優れた経済政策と政敵の粛清、中ソ双方との緊密な関係、独裁の徹底によって金日成主体思想(チュチェササン)を国家運営の土台とし、1972年の憲法改正でこれを確立します。

 

次回(最終回)は、現代の南北朝鮮について書き、このシリーズを締めくくります。