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朝鮮史シリーズ第19回 朝鮮王朝の末期と日清戦争〜日清戦争と独立朝鮮〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、日清戦争と独立朝鮮について書いていきます。

 

1884年閔妃は甲申事変で清の力を借りて朝鮮の開化派を追放し、粛清します。そのように改革が全く進まない中、民衆の極度の貧困は改善せず、不満が増大します。そんな中で、東学(トンハク)という新興宗教が勢力を拡大します。東学は1860年崔済愚(チェジェウ)によって創始された宗教で、儒教・仏教・朝鮮の民間宗教の三つが融合され、真心を込めて呪文を唱え、そして修養して霊符を飲めば天と人が一体となり、現世において神仙となれる、というものです。そしてキリスト教を西洋の宗教と位置付けて西学(ソハク)と呼び、それに対する民族宗教ということで東学という名前になりました。

彼らは元々暴力を否定しますが、政府の暴政と弾圧に耐えかね、1894年に全琫準(チョンボンジュン)を首領として反乱を起こします。甲午農民戦争(東学農民運動・トンハクノンミヌンドン)です。この反乱は全州(チョンジュ)一帯を席巻し、朝鮮は反乱の規模を見かねて清に援軍を要請します。日本と清は甲申事変直後に天津条約を結び、日本と清それぞれ朝鮮出兵時に相手に通告することが約束されていたので、日本も朝鮮に出兵します。日本軍と清軍は朝鮮で対峙します。

日本は清と共同で朝鮮の改革を呼びかけましたが、清は日本の朝鮮からの撤兵を要求してこの提案を拒否したため、日本はイギリス(当時世界一の大国)からの支持を取り付けて朝鮮王宮を占拠し、高宗の身柄を確保して清軍追放の勅命を引き出します。そして日本軍は近代化を徹底していたのもあって、清軍を次々と破り、朝鮮駐屯中の清軍の司令官である葉志超を平壌で降伏させ、そして清の自慢の北洋艦隊(旧式軍隊で、その増強費を西太后が自らの趣味に使ってしまった)を壊滅させ、台湾、遼東半島まで進出します。清が朝鮮から過酷な収奪を重ねていたことと、満州人の王朝である清に対する中国人の不満が高まっていたこと、清が近代化を拒否して衰退していたことが相まって、「眠れる獅子」と呼ばれて欧米列強から警戒されていた清はあっけなく敗北してしまいます。

1895年4月17日、日本は清と下関条約を結び、2億両の賠償金の支払いや台湾・遼東半島澎湖諸島の割譲、沙市(武漢の南方)、重慶杭州、蘇州(いずれも長江沿岸の要所)の開港、日本への最恵国待遇、そして朝鮮の独立を認めさせます。1300年続いた中華思想に基づく冊封体制はここに終焉します。

この下関条約、一番いい目を見たのは朝鮮ですが、面白いことに台湾での方が注目されています。朝鮮では日本からの独立後に両班の子孫らが実権を握ったために徹底的な反日教育が行われ、「日本による朝鮮植民地支配の始まり」とされて無視されていますが、台湾では「清の暴政からの解放」とされて記念されています。朝鮮から徹底的に収奪するわ、台湾は領有を宣言しながら「化外の地」(中国の統治が及ばない地域)として切り捨てて暴力・疫病・貧困に満ちている状態を放置するわで、どちらも清に散々な目に遭わされていた地域ですが、先住民の縄張り争いが歴史で、日本によって初めて統一された台湾と、中国かぶれの収奪貴族の両班による暴政が歴史の朝鮮で、対日感情が全く異なるものになったのです。

しかし閔妃は、自らの権勢を維持するために、せっかく日本が清から独立させたのに今度はロシアに接近します。そのため閔妃の政敵である大院君は日本に接近し、閔妃を共通の敵とする訓練隊・親衛隊・警務使を取り込みます。そして下関条約が結ばれたその年に、訓練隊長の禹範善(ウボムソン)が閔妃を殺します。朝鮮ではこれは、日本の仕業とされていますが、純宗(高宗と閔妃の子で、最後の君主)の証言によると犯人は訓練隊で、また駐朝鮮日本公使の三浦梧楼の加担は事実ですが、彼は当時ロシアが日本を狙っていたことを考慮して独断で加担したまでであって、日本が閔妃に手を下したというのは事実とは違うわけです。

そして大院君は閔妃を殺した後、政界から引退します。

1897年、朝鮮は国号を大韓帝国(テハンチェグク)と改め、君主の呼称は国王殿下(グクワンチョンハ)改め皇帝陛下(ファンジェピェガ)と変更されます。韓は朝鮮南部の古称と、国王を意味する雅号がかけ合わさった単語です。

そして中国の使節を迎える場所だった迎恩門(ヨンウンムン)を取り壊し、その跡地に独立門(ドクリプムン)が建てられます。韓国では「日本からの独立記念」とされていますが、実際は中国からの独立記念だったのです。

しかし高宗は皇帝となったのをいいことに増税し、反乱の原因を作ります。

 

次回は、韓国併合について書きます。