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朝鮮史シリーズ第18回 朝鮮王朝の末期と日清戦争〜朝鮮王朝の開国と日清戦争〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、朝鮮王朝の開国と日清戦争に至るまでの流れについて書きます。

 

1873年閔妃(ミンピ)が義父の大院君(テウォングン)を追放して実権を握り、開化派を重用していきます。そんな中で1875年、江華島(カンファド)事件が発生します。日本が漢江(ハンガン)河口の江華島に近づいて海の測量を実施し、鎖国政策を堅持していた朝鮮の軍が砲撃したのです。朝鮮が日本との交易交渉を、日本が蒸気船に乗って洋装で来ているのは中華秩序に反する、という言いがかりをつけて先延ばしにし続けていたために、日本側がしびれを切らして事件です。そして1876年、外交使節の相互派遣や仁川(インチョン)、釜山(プサン)、元山(ウォンサン)を開港し、そこの日本領事に領事裁判権を与える、という内容の日朝修好条規(朝日修好条約・チョイルスホジョヤク)を結びます。

こうして、朝鮮王朝の鎖国政策は終わります。

その後朝鮮では、西洋の影響を受けた日本式の訓練を受けた軍隊である新軍(シングン)が誕生します。閔妃は彼らだけまともな待遇を与え、もともといた清式の軍隊である旧軍(ググン)を無視します。ただでさえ貧しいにもかかわらずその食い扶持さえも絶たれ、飢えと苦しみに喘ぐ旧軍は、閔妃を恨む大院君や保守派と連携し、1882年に壬午軍乱(イムホグンラン)が発生します。大院君は閔升鎬を殺し、閔妃は侍女の一人を身代わりにして逃げます。そして大院君は実権を取り戻します。

しかし閔妃は清に助けを求め、清は大院君を捉えて天津に連行されます。彼女はその感謝に中朝商民水陸貿易章程(チュンチョサンミンスリュクムヨクチャンチョン)を結びます。清が朝鮮の宗主国の地位を保つだけでなく、朝鮮の通商も支配するというものです。また彼女は日本とも済物浦条約(チェムルポジョヤク)を締結し、壬午軍乱によって焼失した日本公使館などの対日賠償補償、日本軍の駐屯や日本の権益拡大を認めます。

このように朝鮮は、バランス外交を超えて二枚舌外交と言えるやり方で自らの地位を保ちます。しかし残念なことにそれは民のためではなく、権力者のご都合主義のためでしかなかったのです。国王の高宗(コジョン)は酒と女性に溺れて全く政治を顧みず、王妃の閔妃は浪費家で短気で、国王の妾である張氏(チャンシ)を脅す、清の西太后と似て晩年を自らの贅沢で国家財政を食いつぶす嫉妬深い人物で、家臣たちは権力争いに明け暮れるという悲惨な状態でした。家臣たちは保守派(勢道政治・属清鎖国)、改革派(大院君、開化・鎖国)、事大党(閔妃、属清・開化)、独立党(金玉均親日・開化)の四派に分かれて、激しい抗争を繰り広げていました。

このような状況を見かねて、金玉均(キムオッキュン)ら開化派は朝鮮独立のための活動を開始します。金玉均は机上の空論を吐く面がありましたが、議論攻めの秀才で、賢い人物でした。そんな彼が、賢くも無謀な計画を立て、実行します。彼は1883年〜1885年のフランスのヴェトナム(当時清の属国)侵攻に注目し(清仏戦争)、朝鮮に構っている暇はないと見て、甲申政変(カプシンジョンビョン)を起こし、事大党を追放します。しかし仲間同士の連絡不足とそれを考慮しない金玉均の無茶振りのせいで、袁世凱率いる清軍(1300人)に完敗します。彼は26歳で清軍を率い、横暴な面がありつつも優秀な人物で、甲申事変を支援していた日本軍(150人)も打ち破ってしまいます。

甲申事変は失敗し、金玉均は日本に逃げ、朝鮮独立運動の支持者でもある福沢諭吉慶應義塾に滞在します。そして上海に行って再起を期すも、朝鮮王朝が差し向けた暗殺者に殺されてしまいます。彼の遺体は朝鮮に持ち帰られ、凌遅刑(体を徐々に切り刻んで殺す刑罰)に処せられます。

見かねた福沢諭吉は、暴力団さながらの権力争いが常態化し、近代化を拒絶し続ける朝鮮を「妖魔悪鬼の地獄国」と評価し、その朝鮮とその背後にいる中国を「心において絶縁すべし(価値観を共有するな)」と主張する脱亜論を書き、アジア諸国の連帯による欧米列強の侵略撃退(大アジア主義)から、欧米列強と連携した日本独自の近代化へと主張を転換します。

こうして日本と清は、朝鮮を巡って一触即発の状態にまで対立していきます。

 

次回は、日清戦争と独立朝鮮について書きます。