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朝鮮史シリーズ第17回 朝鮮王朝の末期と日清戦争〜朝鮮王朝の開国への道〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、朝鮮王朝の開国するまでの経緯について書きます。

 

1636年、朝鮮は清の属国となって徹底的に搾取されていましたが、日本ともそれなりの交流はあり、1607年から1811年には計12回、朝鮮通信使が日本に派遣されています。15世紀前半や16世紀末にもありましたが、江戸時代に最も活発に派遣されます。彼らは道中で、朝鮮で庶民にするのと同様に略奪、暴行を働いたり、町を汚すなどの不祥事を起こしてもいますが、外国との交易を厳しく制限(鎖国)していた日本に中国文化をもたらす手助けもし、朝鮮通信使がなくなってからも民間では交流が終始続きました。

1840年〜1842年、阿片戦争が発生し、清がイギリスの侵攻の前に大敗します。それによって清が衰退し、朝鮮国内でも動揺が走っている中で、1864年、若年の国王高宗(コジョン)の父親大院君(テウォングン)が実権を握ります。彼は若い時は非常な遊び人でしたが、それを生かして支持派を獲得し、国政の実権を握るまでになります。そして勢道政治(セドチョンジ、王に取り入った貴族たちが実権を握る政治)を行なっていた安東金氏(アンドンキムシ)や老論派(ノロンパ、旧西人派)を抑え、北人(プクイン)や南人(ナムイン)(共に旧東人派)を優遇しました。そして政治と軍事の一体化を図り、多くの武臣(ムシン)を採用しました。そして文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)で焼かれて以来再建されていない景福宮キョンボックン)を再建し、国力発揚を図りました。

ところで、朝鮮では党派争いが非常に激しく、時には殺し合いに発展することもありました。外部から隔絶された最貧国であったのと、朝鮮王朝の情報統制が非常に厳しかったのもあって実態は余りわかっていませんが、党派争いが凄まじく、政変が常態化していたことはまぎれも無い事実です。例を挙げると、東人派は、文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)ころに南人派と北人派に分裂し、そして日本との戦争で国土が荒れ果てたのもあって北人派が中立外交を掲げて光海君を支えることで命脈を保ったものの、仁祖反正(1623年)に光海君もろとも追放された、という具合です。

そんな中、国内の結束を強め、外国勢力の干渉を排除するために、1864年1871年には儒林(ユリム)という儒教学校を潰しに行きます。儒林は儒教学校であると同時に、明や清の出先機関として私兵も掲げ、両班以上に朝鮮庶民から搾取を重ねていた、いわば朝鮮王朝版暴力団孔子学院です。孔子学院は中国(共産中国)の出先機関として他国の大学の中に置かれたもので、お金をばらまいて協力するそぶりをして他国の重要な情報を抜き取る機関です。大院君は清の衰退に乗じ、国内の重要な47校を除く全ての儒林を潰します。これを通し彼は、儒林の横暴に苦しんでいた民の支持を集めました。

そして戸布制(ホポチェ)を導入して両班の土地独占を禁止し、課税もするなどの改革を進める一方、衛正斥邪(ウェジョンチョクサ)と言って国学朱子学を擁護し、その他の学問・宗教を徹底的に排斥する政策を行ったり、国内各地に「欧米列強が侵犯しているのに戦わずして和睦するのは売国だ」と刻んだ、斥和碑(チョクファビ)と呼ばれる碑文を建立するなどの保守的な政策も実施しました。大院君は、身分より実力を重視する実力主義者と、鎖国を堅持する保守主義者の二つの顔を持っていたのです。

彼は勢道政治という両班による政治の私物化を一掃したものの、彼自身がまた独裁を行ったため、事実上勢道政治が存続することとなります。高宗の妃であり、彼に反発した保守派を率い、朝鮮の自主政策推進を好ましく思っていなかった清の支援を受けた閔妃(ミンピ)は、1873年に大院君を追放し、実権を握ります。

彼女は若い時に朝鮮王朝最大の私有地を持つ閔氏(中国系)の娘として生まれ、清との繋がりが深く、若い時は宮廷で努力し、勤勉で従順でしたが、政治の実権を握った頃から清のつながりや権力をものにする浪費家となった人物です。ただし清とのつながりや自身の能力を生かし、滅びゆく朝鮮王朝を支えた人物でもあります。

彼女は大院君を追放した後、戸布制を廃止し、儒林を復活させるなどの反動政策を実施する一方で、閔升鎬(ミンギュホ)や朴趾源(パクシウォン)、金弘集(キムホンジプ)などの開化派を登用していきます。

そんな中で、朝鮮はいよいよ開国します。

 

次回は、朝鮮王朝の開国から日清戦争に至るまでの流れを書きます。