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朝鮮史シリーズ第13回 文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)〜文禄の役(壬申の倭乱)前半〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今日は、文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)のうち、文禄の役(壬申の倭乱)の前半について書いていきます。

 

16世紀前半、後期倭寇(北九州や瀬戸内海を拠点としていたが、大半は中国人の集団)が朝鮮や中国沿岸を襲いますが、日本がまとめられるに向かって衰退し、1590年に豊臣秀吉が日本をまとめ上げた(天下統一)ことによって全滅します。

この頃、スペインが勢力を拡大し、1580年にはライバルのポルトガルを併合し、その勢いでフィリピンを拠点として東アジアを狙っていました。それに対抗すべく日本も中国への進出を計画し、時の朝鮮国王宣祖(ソンジョ)に、明に入る(征明)から、同盟を結んでくれ、と持ちかけます。

これを受けて朝鮮は、日本が攻めてくるかもしれないので警戒し、備えるべきと主張する西人派(ソインパ)と、明が付いているので日本は恐れて攻めてこないと主張する東人派(トンインパ)に分裂します。長年の事大主義の影響で、東人派の意見が採用されます。

朝鮮は日本の要求を無視したため、日本は朝鮮侵攻を検討します。宇喜多秀家加藤清正らの主戦派と小西行長らの慎重派に分裂し、対馬琉球(現在の沖縄、当時明の属国)からの情報も手に入れて色々と検討された結果、日本は朝鮮侵攻を決定します。

日本軍(16万人)は釜山(プサン)に上陸し、朝鮮軍は日本軍に惨敗し、恐れをなして逃亡します。日本軍は中部の忠州(チュンジュ、現在の忠清北道忠州市)で申砬(シンリプ)率いる朝鮮軍を壊滅させて申砬を自殺させて漢城(ハンソン)攻撃の王手をかけます。朝鮮王宣祖は恐れをなして北へ逃亡し、もぬけの殻となった景福宮キョンボックン、朝鮮王宮)は民に放火されて全焼します。韓国・北朝鮮では日本軍が景福宮を全焼させたと言われていますが、実は景福宮放火犯は朝鮮王に見捨てられた民衆だったのです。

朝鮮軍は事大主義を旧式装備、平和ボケ(事大主義による)、事大(防衛を中国に丸投げ)、情弱(日本軍の戦い方を全く研究していなかった)、無責任(各自自分のことしか考えていない。これが権力争いの常態化の原因になった)によって、戦国時代を耐え抜いた日本軍の前に壊滅します。

日本軍は開戦から21日で漢城(ハンソン)に入ります。この時民衆はこぞって日本軍を解放者として歓迎します。この日本軍に従った民衆を、順倭(スンウェ)と言います。すでに焼け野原となった漢城と順倭を見た日本軍は、呆れ返ったと言います。

宣祖は明との国境にある義州(ウィジュ)まで逃亡します。ここで明に逃げようとしますが、柳成龍(リュソンリョン)に止められます。彼は将軍李舜臣(リスンシン)を抜擢したり、宣祖の明亡命は朝鮮の滅亡への最後の一歩と見抜いてこれを止めるなど、賢明な名臣だったのです。

のちの朝鮮戦争でも、韓国大統領李承晩(イスンマン)や北朝鮮最高指導者金日成(キムイルソン)は敵の襲来を知った瞬間に逃げています。指導者が民を抑圧し、国家存亡の危機になれば民を捨てて逃げ、大国に泣きつく、これが朝鮮の指導者の長年の姿だったのです。

宣祖は民に石を投げられ罵倒され、家臣の大半に見捨てられるという状況に陥っていたため、これを打開するために王朝を分け、王世子光海君(クァンヘグン)を朝鮮に残し、自分は中国に逃げるという(分朝・ブンチョ)計画を立てていました。しかしこういった宣祖の逃亡によって、日本軍は宣祖の身柄確保が不可能となり、そうこうしているうちに明軍と対決することになります。宣祖の行動が実は、朝鮮の巻き返しにつながったのです。

小西行長らは平壌に到達し、加藤清正らは朝鮮半島北東まで進出します。朝鮮北東の咸鏡道(ハムギョンド)一帯はかつて満州の一部だった土地で、世宗(セジョン)の時代に朝鮮となりました。それゆえ中央政府から冷遇されて流刑地とされ、民の中央への反発も強かったのです。それゆえ加藤清正らはほとんど抵抗を受けずに朝鮮東岸を制圧し、満州に突入します。

当時の満州は、満州女真)族の土地で、オランカイ(満州語の「トナカイを飼う人」に由来)と呼ばれていました。加藤清正は北東から明を攻撃するルート開拓のためにここに侵攻しますが、ヌルハチ率いる満州族の抵抗によって押し返され、また雑穀しか取れず寒冷な土地であるために戦果も見込めないということで、撤退します。

 

次回は、文禄の役(壬申の倭乱)後半について書きます。