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朝鮮史シリーズ第10回 朝鮮王朝の始まり

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の始まりについて書きます。

 

みなさんは、事大主義という言葉をご存知でしょうか?朝鮮の外交姿勢を表した言葉で、孟子の「以小事大(小を以って大に事(つか)える)が語源となっています。朝鮮の歴代王朝は中国やモンゴル、満州といった周辺の大国に媚びていましたが、朝鮮王朝の時代にこれが極まります。朝鮮王朝の創始者はまさにこの事大主義(サデチュイ)を朝鮮の国是にしたのです。

中国の伝統的世界観である中華思想の、中国と朝鮮での捉え方の違いをまとめました。

中国:世界秩序(上から順)=中華、臣下の国、化外の地(夷狄、禽獣。中国に服属していない国々への蔑称)

朝鮮:世界秩序(上から順)=中華、小中華(朝鮮)、臣下の国、化外の地(日本など独立国)

この朝鮮の異常なほどの中国かぶれは、朱子学という儒教の最右翼派閥から来ています。朱子学資治通鑑(1084、宋の歴史書)の「君臣の別=華夷(中国と夷狄)の別」というような何でも上下関係で見ることを徹底しており、朝鮮王朝の極度の属中の土台として国教・真の学問とされ、それ以外の宗教・学問は厳禁されたのです。その朝鮮王朝の始まりとはどのようなものだったのでしょうか?

14世紀初頭、高麗は宗主国の元の没落や倭寇(北九州や瀬戸内海沿岸を根城とし、泥棒や密貿易をしていた海賊集団)の襲撃によって滅亡寸前に陥っていました。そして紅巾の乱(1351年〜1368年に中国で発生した大反乱)によって中国から追放されようとしていました。

その高麗では、崔瑩(チェヨン)ら武臣を中心とし、元と明の間で自立を図った親元派と、鄭夢周(ジョンモンジュ)ら文臣を中心とし、明への従属を図った親明派が対立します。李成桂(リソンゲ)は当初は多くの武臣たち同様親元派でしたが、のちに親明派に転向します。

李成桂咸鏡道出身で、部下の大半は満州人(朝鮮北部に多数居住していた)です。そして倭寇迎撃などで名声を集め、1388年に明(1368年、元を中国から追放した中国系王朝)が鉄嶺(北朝鮮江原道南部の高山郡と淮陽郡の境界にある峠)以北の割譲と明への服属を要求して高麗がこれを拒絶した時、征明軍の総司令官に任命されます。しかし彼は、威化島(ウィファド)で梅雨による増水のために渡河できなくなり、また彼自身が親明派であったために退却を決めます。そして彼は開京(ケキョン)に反攻し、崔瑩を追放して殺します。威化島回軍(ウィファドフェグン)です。そして1392年には高麗を廃して朝鮮(チョソン)王朝を建てます。そして開京を捨てて漢陽(ハンヤン、今のソウル江南)の対岸(朝鮮族満州族が大体漢江・ハンガンを境としていたため、自らの故郷に近い側を選んで朝鮮族の反乱に備えた)に漢城(ハンソン)を建てて首都とします。元寇(蒙古襲来)や倭寇襲来で疲弊し、権力争いばかりで失敗国家となっていた高麗はあっさり滅び、朝鮮王朝の時代となります。

朝鮮の歴代王朝は中国やモンゴル、満州の後ろ盾を得て王朝を名乗っていただけで、実態は最も力のある集団に過ぎず、実質王朝という名の集団が無主地に縄張りを張っているものだったのです。朝鮮の歴代王朝の圧政に民衆が反発しなかった理由は、そもそも国家どうのこうのとういう考えがなかったからというのが理由です。また事大は朝鮮にとっては生き残り術そのもので、近くの大国なしには国が存続し得なかったのです。

このことは朝鮮の国号を決めるときにも表れています。朝鮮王朝は国号を朝鮮(チョソン朝貢品が少ない地)か和寧(ファニョン、平和で落ち着いている)に絞り、宗主国の明に決断を仰ぎました。明の初代皇帝洪武帝は、和寧がカラコルム(モンゴルの旧都)の別名というのと、朝鮮が極度に貧しく、平和とはかけ離れている(周囲から取り残された土地だったので、実態が国外から全くわからなかった。)という理由で朝鮮にしました。ちなみにここでは李氏朝鮮(リシチョソン)という名前を使いません。李氏朝鮮古朝鮮檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮。第1回参照)と対比させた単語で、これらは完全に嘘・事実歪曲であり、また朝鮮という名前はこの王朝の建国までなかったものだからです。

そして李成桂は、権知朝鮮国事(グォンチチョソングクサ、朝鮮の仮知国事)に任命されました。仮だったので、知国事(チグクサ、現代日本でいう県知事)よりも低く、またここでいう国は邦を意味し、中国の地方よりも下位です。またのちに君主の地位を賜る(第11回参照)も君主は皇帝(ファンジェ)を名乗ることを禁じられて(中国皇帝以外に皇帝はいないから)国王(グクワン)を名乗り、万歳(マンセー)ではなく千歳(チョンセー、万歳は皇帝専用の祝賀で、その下位にある)を祝賀に使うように強いられ、また後継者は皇太子(ファンテジャ)ではなく王世子(ワンセジャ、君主ではないため太子を名乗ることも禁止された)しか名乗れなかったのです。

このように朝鮮は、朝鮮王朝の時代に最も中国への従属を強め、朱子学に傾倒した最貧国としての歩みを定かにします。

 

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29:25)