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朝鮮史シリーズ第8回 高麗後半期と元寇(蒙古襲来)〜前半〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、高麗後半期と元寇(蒙古襲来)に至るまでの経緯について書きます。

 

刀伊の入寇(1019年)以降数十年して、遼が衰退し満州人(女真族)が勃興します。彼らは1115年に金を建国し、1125年には遼を中央アジアへ追放します。そのために高麗は金に服属することとなりました。

金は中華帝国となるべく、宋(1127年、金に北半分を奪われ、その後金の属国に)への介入に集中し、高麗をあまり相手にしませんでした。そのために高麗はそれなりに安定し、1145年には朝鮮最古の史書三国史記」(第1回にも登場しました)が完成します。

しかし1135年に怪僧妙清(ミョチョン)が、金征伐と風水思想(中国の魔術の一種)を掲げて西京(現在の平壌)に立て篭もり、大為(テウィ)建国を宣言して1年間反逆するなど内紛が相次ぎ、1170年には武人の李義方(リウィバン)がクーデターを起こして実権を握り、武人政権(ムシンジョングォン)時代が始まります。朝鮮では両班(ヤンバン)が圧政を敷き、文臣(ムンシン)・文班(ムンバン)が武臣(ムシン)・武班(ムバン)を軽蔑し、双方の間で激しい権力争いが起こるということが繰り返されてきました。1196年から1258年の崔氏政権(チェシジョングォン)の時代にそれは極みに達し、抗蒙(モンゴルの侵略への抵抗)を主張する武臣たちと、従蒙(モンゴルに従う)を主張する文臣たちが対立しているところを、モンゴルが文臣に加担し、国王もそれに便乗したために、1231年から1258年まで4度にわたる侵攻を受けて高麗は降伏します。もともと高麗は、1220年から1223年までモンゴルに朝貢していましたが、モンゴルへの従属に怒った武臣たちがモンゴルの使者を殺したことがことの発端です。そして高麗の内紛で終戦が長引いたのです。

1232年から1269年、高麗は開京(ケキョン)の民もろとも江華島(カンファド)に逃げていました。そして崔氏を粛清してモンゴルに服属しました。そして王世子(のちの忠烈王。属国なので皇太子や王太子を名乗れなかった。)をモンゴルへ入朝させます。高麗はモンゴルによる領土没収やモンゴルへの裏切りで平壌以南を失い、また江華島から開京への帰還ことモンゴルへの降伏を拒否した軍人たち(三別抄・サンビョルチョ)が武臣政権を滅ぼして高麗を僭称し、国王は命からがら開京へ戻ってモンゴルへの助けを求めます。

モンゴルはこれに応じ、三別抄を攻撃します。三別抄とは左夜別抄(ジュワヤビョルチョ)、右夜別抄(ウヤビョルチョ)、神義別抄(シニビョルチョ)のことで、抄は「ひったくる」を意味します。高麗の名を着て民衆から泥棒する犯罪者まがいの集団だったのです。そもそも朝鮮の歴代王朝は基本的に収奪王朝ですので、別にこれは不思議なことではなかったのです。そして彼らは珍島(チンド)に砦を築き、全羅南道慶尚南道など高麗南部一帯で虐殺や放火、略奪や強姦など、見境なくありとあらゆる暴虐を尽くしました。そして日本への救援を求めますが黙殺され、モンゴルへの降伏を求める派閥が出るなど、内部分裂します。

1271年、元(1271年、モンゴルから中国風に改名)は珍島を陥落させます。残党は耽羅島(タムナド、現在の済州島)に籠りますが、1273年に壊滅させられます。高麗は征東等処行中書省(チョンドンドゥンチョヘンチュンソソン)の管轄下に置かれ、耽羅島は元々高麗の領土ではなく属国であり、牧畜に適した土地で日本への前線であったために、元の直轄領になります。

1274年、高麗王となった忠烈王(チュンニョルワン)は、異常なほど元に媚びます。「高麗史」によると、自らを小邦(元の小さな一部)とみなして子供を皆元の人質とし、辮髪・胡服の令(モンゴル風の衣装と髪型の強制令)を発布し、また元の将軍の大半が日本侵攻に否定的な中で積極的に日本侵攻を提言し、文永の役(1274年)には人夫3万人を徴用して作った900隻の船と兵5000〜6000人、水夫6000〜8000人を、弘安の役ではそれぞれを倍提供しています。

 

次回は、蒙古襲来について本格的に書きます。