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朝鮮史シリーズ第7回 高麗前半期と刀伊の入寇

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、高麗の前半期の歩みについて書きます。

 

926年、扶余族と満州人の混合国家であった渤海が、916年に渤海から離反した契丹(モンゴル系)に滅ぼされます。契丹の首長耶律阿保機は947年に国号を遼と改め、勢力を拡大します。

935年には朝鮮が高麗によって統一され、960年には唐滅亡(907年)以来分裂していた中国が宋(宋皇室の出自から見ると、モンゴル系か中国系)によって統一されます。しかしその宋も遼に圧迫され、1004年には澶淵の盟を結び、兄である宋が弟である遼に毎年財貨を送ることとなります。朝鮮は中国より北方(タタール)諸民族の攻撃に晒されるのもあり、993年に遼に攻められ、994年から遼の属国となります。高麗は遼への請願によって江東六州(現在の北朝鮮平安北道)を与えられているにもかかわらず、1016年には宋への鞍替えを行なっており、怒った遼の反撃によって1020年には再び遼に従属します。二枚舌と裏切りでここまで国をめちゃくちゃにするところは、統一新羅と全く変わっていないのです。

高麗は荒れ果て、治安も統一新羅後期以来極めて悪く、遼から逃れた満州人(渤海の残党)が日本海沿岸を襲って朝鮮人もそれに混じって南下し、1019年に彼らは日本を攻撃します。

1019年、壱岐島を3000人の船団が攻撃し、略奪、放火、虐殺、拉致を行い、そして対馬や北九州一円も荒らし回りますが、日本軍(司令官:藤原隆家)の反撃によって壊滅し、そして彼らに軍船や武器を提供して利用した高麗も彼らを捨て、彼らが敗走してきたところを殲滅して日本人捕虜270人を奪還します。刀伊の入寇です。壱岐島の被害は死者365人、拉致被害者1289人、牛馬380匹、家屋45棟以上、そして対馬島の被害は死者36人、捕虜346人(男性102人、女性・子供244人)、対馬銀山焼損です。そして北九州の被害も加えて、日本側は千人規模の損害を被ったのです。

刀伊とは高麗語で東方の蛮族(東夷)を意味します。ここでいう刀伊は満州人のことです。しかし当時、満州人は遼(契丹)の支配下にあります。契丹など北方(タタール)諸民族は北の蛮族(北狄)とされていました。なので、高麗がこの入寇の被害を受けた日本に協力したのは、まぎれもない責任逃れによるものだったのです。とんでも無いことです。事実、朝鮮の史書「高麗書」にはほとんどこのことは登場しませんし、日本も高麗との交渉をスムーズにするために、高麗の名前を伏せざるを得なかったのです。

1995年、金泳三(キムヨンサム)大統領が江沢民中国国家主席中国共産党最高指導者)との会談で、「日本のバカタレ(パルジャンモリ)を叩き直してやる!」と発言しましたが、自らの歩みを振り返らずに、日本との歴史問題を解決することは永遠に不可能です。日本も韓国・北朝鮮も一方を正義とする見方ではなく、客観的な見方に基づいて事実を直視しなければなりません。

 

争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。(箴言20:3)