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朝鮮史シリーズ第6回 新羅の滅亡と高麗の誕生

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、新羅の滅亡と高麗の誕生について書きます。

 

新羅は7世紀半ばに濊族の国となって以来、唐への朝貢と王侯貴族(濊族が大半)の庶民(倭人こと韓人が大半)からの過酷な収奪(自分の股の肉を父親に食べさせることまで行われたほど)によってみるみるうちに衰退し、811年からは国家ぐるみで海賊によって日本襲撃を繰り返します。新羅は唐の属国であるにも関わらず日本に媚びていたため、日本は668年から779年に遣新羅使を派遣していましたが、新羅の混乱や彼らの無礼が原因となり、836年には完全に遣新羅使を廃止します。

811年から新羅は、対馬五島列島を毎年のように襲撃します(新羅の入寇)。また日本に帰化した新羅人(故郷新羅では無残な収奪の対象にされていたものの、日本では衣食住保証されていた)による犯罪が多発し、新羅本国の治安もかなり悪化したために、842年には新羅人帰化が禁止されます。

その後も新羅の衰退と内部の混乱は止まらず、農民の反乱や権力争いが常態化し、900年には甄萱(キョンフォン)が完州(ワンジュ、現在の全羅北道全州市)を首都として後百済(フペクチェ)を建国します。また898年には弓裔(クンイェ)が松嶽(ソノク、現在の北朝鮮開城)を首都として901年に高句麗(コグリョ)の復活を宣言します。彼は世の終わりに人民を救う仏の弥勒菩薩の化身と自称し、904年には国号を摩震(摩訶震旦、マハジンタン)と改め、また911年には泰封(テボン)に改めます。北部に泰封、南西部に後百済、南東部に新羅の三ヶ国が並立します。後三国時代です。

918年、満州人で弓裔の部下だった王建(ワンゴン)が、弥勒菩薩の化身をかたって暴政に走っていた弓裔を滅ぼし、開州(ケジュ、現在の北朝鮮開城、935年に開京・ケキョンと改名)を都として高麗を建設します。20世紀のハイチに、自分をブードゥー教の死神の化身と語って北半球最悪の圧政を敷いたフランソワ・デュヴァリエがいました。弓裔はまさに、後三国時代のデュヴァリエとも言える武将だったのです。そして927年に後百済新羅を支配すると、935年には王建は新羅から後百済を追放し、新羅は彼に降伏します。赫居世以来992年続いた新羅は、ここに滅びました。

その後、甄萱が息子の甄神剣(キョンシンゴン)に追われ、王建に降伏します。王建は後百済を攻め滅ぼします。ここに満州人王朝高麗が始まります。

王建は訓要十条(フンヨンシブジョ)を制定し、後百済故地である全羅道(チョンラド)出身者が公職につくのを禁じます。当時の朝鮮は、北部が満州人、南部が朝鮮人の土地になっていましたが、南部でも東部の新羅はすぐに高麗に降伏したのに対し、西部の後百済は最後まで朝鮮人の王朝として満州人王朝の高麗に抵抗したのです。これを背景とし、現在にまで続く韓国での全羅道出身者に対する政界・芸能界などあらゆる界隈での差別が始まるのです。韓国では慶尚道新羅故地)が右派・親米派全羅道後百済故地)が左派・親中(中共)派が強い地域となっていますが、それは独裁時代(1948-1987)の全羅道出身者への差別が原因となっているのです。弓裔といい、王建といい、無茶苦茶な武将たちが割拠した後三国時代だったのです。

 

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(箴言16:18)