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朝鮮史シリーズ第5回 統一新羅〜後半〜

みなさんこんにちは。梶原です。

今回は、朝鮮統一後の新羅について書きます。

 

新羅の朝鮮統一は、朝鮮だけ見てもわからないものです。

第3回でも書きましたが、隋(581-618、中国を支配したモンゴル系王朝)は、長江から華北(現在の北京一帯)まで流れる大運河を建設して兵糧や兵員(60万人)を大規模に動員してまでして高句麗(ウラル系)を滅ぼそうとしますが、4回侵攻して4回とも大敗しています。

隋の後継王朝の唐(618-907、中国を支配したモンゴル系王朝)は、隋が60万人動員したところを10万人に減らしてまで高句麗を攻めますが、高句麗は隋の時同様15万人動員してこれを撃退します。

そもそも朝鮮北部と満州南部を支配していて、唐よりもはるかに小国である高句麗を、なぜ唐は恐れたのでしょうか?その答えはモンゴル高原を見ればわかります。

現在のモンゴルから中国内モンゴルにかけて突厥(トルコ系)が分布し、その北には鉄勒(トルコ系)が分布し、そして南満州西方には契丹(モンゴル系)が分布していました。彼らが皆高句麗と連合して南下すれば、唐は一瞬で滅んでしまいます。実際高句麗は、中国の北方にいた遊牧諸民族とかなり深いつながりがありました。

こうして新羅の要請を高句麗撃滅の好機と捉えた唐は、たちまち百済高句麗を滅ぼし、倭(日本)を朝鮮から追放します。

 

その後、唐と新羅の関係に亀裂が生じます。

第4回で触れましたが、唐は新羅本領安堵を条件に新羅を味方につけたのです。ところが、唐は国力をカサにきて新羅を属領にします。新羅の反逆など一捻りという考えもありました。唐は以下のように旧朝鮮三国を分割します。

高句麗安東都護府(アンドンドホプ)

百済:熊津都護府(ウンジンドホプ)

新羅:鶏林州都督府(ギェリムジュドドクプ)

新羅は唐に比べてはるかに国力面で劣っており、唐はそれを利用して新羅を自国領にしようとしたのです。外交は力の均衡がなければ、このような理不尽なことが横行する場所になってしまいます。

新羅は朝鮮三国の中国脅威論(中国が最大の脅威であり、日本や北方遊牧諸民族の協力を得てこれを封じ込めようとする考え)を無視してまでして朝鮮を統一しました。しかしその頃、その新羅に滅ぼされた高句麗の残党が、中国に反旗を翻します。

670、吐蕃チベットを支配したモンゴル系王朝)が唐の西部を攻め、唐に打撃を与えます。これを利用して新羅は唐に反乱を起こします(唐・新羅戦争)。新羅高句麗の王族である安勝(アンスン)を朝鮮北部に封じたりして状況を打開しようとしますが、唐が朝鮮北部を制圧したため、安勝百済旧領に封じて(報徳国、ポドクグク)背後を固め、日本に「任那の調」(倭がかつて任那から徴収していた税)を上納し、675年には唐にも謝罪します。普通に考えてみれば宗主国・唐の命令が理不尽とはいえ忠誠を誓いつつ裏では奇襲を仕掛け、昨日の敵だった日本を物品で買収しようとする姿勢は、二枚舌外交、極道外交といえるものです。しかしそもそも唐の理不尽な命令が事の発端で、唐も普段はそれを全く認めないのですが、吐蕃が唐の首都長安(現在の西安)に迫っていたために全く意に介さずに、新羅を許したのです。

698年、高句麗の残党の大祚栄(テジョヨン)が南満州渤海(パレ)を建国します。唐は713年に懐柔に成功して自らの属国にしますが、「登州の役」で敵対します。新羅悪天候によって苦戦しつつも渤海を攻撃したため、唐によって寧海大使(ニョンヘテサ)に封じられ、735年に大同江平壌一帯を流れる川)以南を確保します。

753年、唐の皇帝の前の使者の席順について、日本の使者大伴古麻呂新羅の使者が揉め、唐と日本二カ国の属国ということで新羅が日本(唐の朝貢国)に上座を譲ることになったということがありました。このように統一新羅は、唐の威を借りて日本を睨むという政策をとります。そのため759年には時の右大臣で事実上のナンバー2だった藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が、755年から763年にかけて唐を苦しめた内戦、安史の乱に便乗して軍船394隻、兵士40700人を動員して新羅を攻撃しようとしますが、彼と当時事実上トップだった孝謙上皇の対立で失敗します。

このように、統一新羅は中国に国を売ってでも日本を敵視するという外交を進めていくのです。しかし、この新羅反日売国政策と、それに伴う無残な収奪は、朝鮮の歴史に暗い影を落としていくことになります。他人を自分自身のように愛するという人の道と対局の行動をとった朝鮮は、1300年にわたる悲惨な歩みをすることになります。そのことについては後に書きます。

 

あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。(マタイ22:39)